5/17(水)に、柏レイソルはネルシーニョ監督の退任を発表した。後任は井原ヘッドコーチが務める。11年にわたり柏レイソルを引っ張ってきた名将である。この記事では、ネルシーニョが柏レイソルを率いた期間について、そしてその期間中に彼がチームにもたらしたものについてまとめていきたい。
監督業をスタート
ブラジル出身の元サッカー選手であったネルシーニョこと、ネルソン・バプティスタ・ジュニオールは、1985年に監督キャリアをスタートさせた、ブラジル国内を中心に、サンパウロやフラメンゴ、コリンチャンスといった名門クラブで数々の功績を残した。
1994年のヴェルディ川崎にコーチとして来日、翌年には監督を務めた。そして次期日本代表監督内定まで話は進んでいたが、JFAを批判したことでクラブを去ることになった。
その後しばらくは南米のチームの監督を務め、2009年7月に柏レイソルの監督に就任。残留争いに巻き込まれているチームの再建を託されたが、チームはJ2降格となってしまう。
柏レイソルでの栄光と挫折
第一次政権
2010年もネルシーニョは柏レイソルを指揮することとなった。選手たちに常にプレッシャーをかけ、高いモチベーションと競争力を維持することに力を入れた結果、チームは彼の指導の下で大きな飛躍を遂げた。
J2では優勝を果たし、1年でのJ1復帰に貢献。そして2011年シーズンは攻守がかみ合い相手を圧倒。そしてJ1リーグ優勝という偉大なる功績を手にした。J2昇格後即J1優勝を果たしたのは、この年のレイソルが史上初である。
その後チームは黄金期を築いていく。初のクラブワールドカップ出場で4位。2012年シーズンは天皇杯優勝。2013年はナビスコカップを手にした。またアジアチャンピオンズリーグにも出場し、最高成績はベスト4。「柏から世界へ」の合言葉は、この時期に生まれた。2014年シーズンは最終節で劇的なゴールで4位に滑り込み、ACL出場権を獲得。この年をもって退任となった。
第二次政権
その後レイソルはユースを指揮していた吉田達磨や下平隆宏、そしてメンデスなどに監督を託したものの、タイトル獲得は出来ず失速。2018年シーズンは17位で3度目のJ2降格が決定した。
そして2019年シーズン、レイソルはこの名将を再度招へいした。J2を勝ち抜くべく当時のスタッフも再集結し、1年での復帰を目指した。開幕当初はなかなか勝ち点が伸びなかったものの、徐々に型がはまり連勝街道を突き進むことに成功。そして1試合を残して、J2の優勝とJ1復帰を決めたのだった。
2020年シーズンはコロナウイルスの影響で難しいシーズンを過ごした。そんな中でもルヴァンカップでは決勝に進出、だがネルシーニョ含めチーム内感染が発生し延期に。2021年の年明けにFC東京とのルヴァンカップ決勝に挑んだが、惜しくも敗れてしまった。
2021年シーズンは4チームが降格するレギュレーションの中、残留争いを強いられる厳しいシーズンとなった。エースのオルンガを放出したことで得点力が激減、代わりの外国籍選手もなかなかフィットできなかった。何とか15位で終え残留したが、満足しないサポーターからはブーイングが飛んだ。
2022年シーズンは当初の予想から大きく飛躍する。システムを3バックに固定すると勝ち点3を積み重ねる。夏場の京都サンガFC戦では後半アディショナルタイムの劇的な勝利で、2位にまで躍り出た。しかし残り10試合は研究され一度も勝つことができず、7位でシーズンを終えることになった。
2023シーズンは大型補強を敢行し、新しいスタイルで挑んだ。しかし開幕からなかなかかみ合わず、キャンプで仕込んだ4-3-3を放棄。第7節でようやく初勝利を収める苦しいスタートとなった。その後の内容は改善されるも、勝ちきれない試合が続き、5/13(土)の横浜FC戦がラストゲームとなってしまった。
レイソルにもたらしたもの
ネルシーニョは柏レイソルに新しい景色を見せてくれた。史上初のJ1タイトルと、世界大会の出場である。それまで中途半端だったクラブを、一段上のレベルに押し上げてくれたのは間違いなく彼のおかげである。
それらを経験した大谷や栗澤、染谷や藤田らが次の世代を育成していく。柏レイソルは圧倒的なブランド力はないが、育成クラブとしては優秀で数々のプレイヤーを輩出している。その代表例が先日アジアチャンピオンになった、酒井宏樹である。
ネルシーニョが在籍した11年は、まさにジェットコースターのような期間であったが、間違いなくレイソルの水準を引き上げた。だからこそ、この順位で満足するものは誰一人いないのだ。ネルシーニョ監督にはこれまでの功績に感謝するとともに、クラブには早急な立て直しを図ってほしい。
参照
ネルソン・バプティスタ・ジュニオール - Wikipedia