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【柏市】国枝慎吾が国民栄誉賞 世界1位であり続けた理由とは

3/3(金)に、車いすテニスの世界王者で引退を発表した、国枝慎吾国民栄誉賞が決定した。4大大会やパラリンピックで幾度も頂点に立ち、世界ランキング1位で引退した国枝は、車いすテニス界そして障がい者スポーツの価値を高めた。その見事な功績を称え、国枝の強さについて深堀していく。

 

経歴

1984年に千葉県で生まれた国枝慎吾は、9歳で脊髄腫瘍を発病し車いす生活を余儀なくされる。母親の勧めで車いすテニスに出会ってから、その才能を開花させていく。高校年代で海外遠征を経験するまでに頭角を現し、丸山弘道氏の教えを受け本格的に競技転向する。そして柏市麗澤大学に進学、2004年アテネパラリンピックでダブルス金メダルを成し遂げる。

 

2007年にはアジア初の世界チャンピオン、そして車いすテニス史上初となる年間グランドスラム(当時の4大大会制覇)を達成し、一気にその実力を世界に知らしめた。2009年にプロ転向し、ユニクロと契約を結ぶ。近年では記憶に新しい、2021年開催の東京パラリンピックで金メダルを果たす。2022年は唯一成し遂げていなかった、ウィンブルドン選手権で優勝。世界ランキング1位のまま、2023年1月に引退を表明した。

 

国枝慎吾公式サイトを参考に作成

プロフィール - プロ車いすテニスプレイヤー国枝慎吾公式サイト | SHINGOKUNIEDA.COM

 

輝かしい功績の裏にあった苦悩

パラリンピックで4度の金メダル、5度の年間グランドスラム達成と他人を寄せ付けない圧倒的な戦績を残した国枝だが、様々な苦悩を抱えていた。

「相手との戦い、自分との闘い、スポーツとして見られることへの闘い。この3つが現役中は肩にのしかかった」

引退会見ではこのように語った。

 

常にトップでいることの難しさ。追いかける相手がいなかったため、自分をどう成長させるかが見えてこないこともあったようだ。しかし世間では優勝への期待であふれかえっている。2016年リオパラリンピックでは、自分のコンディションがまったく良くなかったため、ギャップに苦しんだ。

 

また健常者スポーツとの価値観や注目度に大きく開きがあった、車いすテニスでどう活躍し脚光を浴びるかを、四六時中考えていた。特に2000年代は報道陣の少なさや世間の無関心さが著しく、葛藤する日々を過ごしていた。

 

俺は最強だ

そんな苦悩を乗り切る原動力は「俺は最強だ」という自身の座右の銘にあった。その言葉を自身に染み込ませ、自らを奮い立たせる。ラケットにも刻み、自分が頂点であり続けるための努力はすべてやり遂げたのだ。

 

時には弱音を妻に吐くこともあった。それでも歩みを止めず、常に戦い勝ち続けてきたのは、この言葉に他ならない。そして夢であった東京パラリンピックで金メダルを獲得した瞬間、車いすテニスはようやく健常者スポーツと同じ舞台に立てたことを実感できたのだ。

 

伝説は永遠に

柏市や日本、そして世界が誇るレジェンドが引退してしまうのは、パラスポーツ界には大打撃でありファンとしては寂しくなる。しかしその功績は決して色あせることはない。そのたぐいまれな才能と努力は、今後の車いすテニス発展の土壌となった。若い世代も活躍しているのは、この国枝慎吾が最強であり続けたからに違いない。

 

参考資料

ANNnewsCH Youtube 国枝慎吾選手 引退記者会見