10min+

このコンテンツでは、柏レイソルを中心に国内・海外サッカーの話題や、千葉県柏市の話題を取り上げる。

MENU

工藤壮人の逝去から1年

f:id:gotohitachidai8:20231021192319j:image2022年10月21日、14:50。元柏レイソル工藤壮人がこの世を去った。32歳の突然の訃報は日本サッカー界をはじめ、各方面に衝撃的なショックを与えた。あれから1年が経った今、工藤の活躍を改めてまとめるとともに、思うことを綴りたい。

 

 

レイソルでブレイクを果たす

1990年生まれの工藤は2009年に、柏レイソルユースからトップチームに昇格を果たす。この時は現浦和レッズ酒井宏樹ヴァンフォーレ甲府武富孝介ら大量5名が昇格したことで知られる黄金世代だ。そして同じ年の10月にプロ初デビューを果たす。

 

J2時代の2010シーズンにはアビスパ福岡戦で初ゴールを記録。ネルシーニョ監督のもと才能を伸ばしていった。そして2011シーズンにはリーグ戦で7ゴールをマークし、柏レイソルのJ1初優勝に大きく貢献した。アウェイでの鹿島アントラーズ戦でのゴールは特に印象に残っている。

 

2012シーズンには得点力が一気に開花し公式戦18ゴールを記録。2013シーズンにはエースナンバー9を背負い、ナビスコカップ(現ルヴァンカップ)決勝で貴重なゴールを決めて、大会MVPに輝いた。この年には日本代表にも選出されるまでに上り詰めた。2014シーズンはゴール数が7と減少したもののリーグ戦全試合に出場。2015シーズンにはJ1通算53ゴール目を決めて、レイソルの日本人歴代ゴール数を塗り替えた。

 

国内外を渡り歩く

2016シーズンはカナダのバンクーバー・ホワイトキャップスへ移籍。しかしケガなどの不運もあり1年で退団。2017シーズンからはサンフレッチェ広島、2019シーズンからはレノファ山口に所属。レノファ退団後はフリーとなり様々なクラブのトライアルに参加し、2020シーズンはブリスベンに加入した。

 

そして2022シーズンにJ3テゲバジャーロ宮崎に加入した。プレシーズンにはレイソルと練習試合を行い、古巣との試合を楽しむ様子もあった。開幕節から9月25日までの試合にほぼ出場し、3ゴールの活躍を見せた。しかしそこから突然の病魔が工藤を襲うことになる。

 

突然すぎた別れ

2022年10月2日、体調不良を訴え試合メンバーから離脱。病院の診断結果は水頭症。11日には手術を行ったが容態が急変し、17日にはICUでの治療を余儀なくされた。そして10月21日、14:50。懸命の治療は及ばず、工藤はこの世を去ってしまった。

 

テゲバジャーロからリリースされた訃報は、日本サッカー界に激震を走らせた。レイソルを含む各所属チームは声明を発表し、悲しみに沈んだ。「待っているぞ、クドー」のTシャツをテゲバジャーロは作成し、工藤の復帰を待ち望んでいた。また当時ヴァンフォーレ甲府を指揮し、レイソルユースで指導した吉田達磨監督も「遠くの空に届けたいものがあって」と試合後のインタビューで工藤の回復を祈っていた。しかし思いは届かず、彼はこの世から旅立ってしまった。

 

各方面から支援の募金が行われた。吉田麻也をはじめとする選手協会を筆頭に、遺族に対するお金が募った。またJリーグでは試合前に黙とうを捧げ、横断幕を掲げるサポーターもいた。所属した海外クラブでも同様、拍手やユニフォームを掲げる姿が見られた。

 

いつ誰しもがあり得ること

あれから今日で一年。各方面で哀悼の意を捧げる光景があった。レイソルは前日に酒井宏樹が所属する浦和レッズと対戦した。これもまた工藤が仕掛けたものなのだろう。レイソルのゴール裏では工藤壮人の横断幕が掲げられた。

 

サッカー界はこれまでも悲劇に遭遇してきた。国内で代表的なものは横浜F・マリノスなどで活躍した松田直樹の例である。海外では、試合中に突然意識不明となり亡くなったケースや、移動中に事故でこの世を去ってしまったケースなどがある。

 

我々一般人も、いつこのような事態が身に降り注ぐかわからない。人生100年時代とよく言われるが、突然の出来事は避けようもできないのだから、今この瞬間を大事に生きるべきではないだろうか。いつまでもそばにいると思っていた、工藤壮人のあの悲劇から一年経って、このように強く思う。

 

関連記事はこちら

www.tegevajaro.com